宮澤秀巖

語録集「次元の界」

語録集

故宮澤秀巖先生が遺したお弟子様への師事語録の一部。
美術品、芸術品の定義。書の次元の完成。現代日本において失われた教養への警鐘など、
秀巖先生の書に対する探究・究明の姿勢が窺えます。

「次元の界」

知は教える事が出来る。知は与える事が出来る。知は習う事も出来る。知に據って創作する作品は四次元止りで即ち美術品迄しか作れない。智は神から授けられるもので有る。創作せむとするには森羅万象が総て師で有る事を、心して血の滲む行、学不可以已の業を終生続ける事で有る。頭で識った知を分析し、自己の体に自分自身で教え込む。此の時点より悟りの境地が必要とされる。此の時点より智の領域の界に入る。識の界に於いては他項にも示せし如く右脳と左脳の働きを頭頂で統一させ、前頭葉におくり、集結せるものを充満させ、対象物に一気に打ち込む。此の次元で作品は生命を持ち、自ら行動を発揮する現象を興すカが生ずる。

人間は十中八九右脳を得意として働かす者、左脳を得意として働かす者、即ち理数系と文系に分かれるもので有る。而し行ずる事に據って一瞬左右の脳の働きを一ツに統一させる事が出来る。五次元以上の作品を作らむとするには悟り無くして為し得ないので有る。成立しないので有る。考えぬ者にも人は知を付けてくれるが、考えられる人にして始めて神は智を授ける。気無き者には考えるカが生まれない。神も救いはしない。

パスカルは言う。人間は考える葦で有ると。又ロダンは考える人の彫刻を残す。カントもへーゲルも釈尊も考えられる人で有った。知では美術品しか作れない。知と智が相俟って始めて芸術品が創られ生まれるもので有る。作風には森羅万象より学び、悟り得た其の人の人間哲学が滲み出るので有る。故に純粋で清く正しきもので有らねば高度なものと成らない。学不可以已の業行が必要とされるので有る。行ぜざる者には声無き天の声等聞こえはしない。風の色等観えはしない。石山の石より白し秋の風。芭蕉には其の色が見えるので有る。

書を学ばむとする人々の場合を見るに、始めの中は漠然とした形だけしか見えない。筆遣いも文字構成も見えない。況してや筆勢も筆圧も浮沈分間布白虚実の度合比例等解り得ない。之が書き方の段階で有る。お習字の段階に入りて始めて之等が解り出す程度のもので、まだ此の段階では頭と手が一致せず、即ち識に実践が伴わないので有る。意識通りに手が動き筆が働かねば、心の書は書けない。形の書に終って了うと云う事を心に命じ常に行ぜねばならない。我捨無我悟りの界に於いて始めて五次元の書が書かれ、神と一体と成った時に六次元の書が書けるので有る。行ずる事に據って一瞬の間、之が可能と成るので有る。神と交信が出来るので有る。

短い差しを持って長い物は計れない。文字の大きさは普通の差しで計る事は出来るが書の深さ軽重は心の差しを持たねば計る事が出来ないので有る。業に労を費すうちは四次元止り、行ずる事に據って始めて五次元以上のものが創れる事を解せねばならない。行界の界は単なる識で得られるものでは無い。六根清浄我捨無我の界、境地に入りて始めて神は其の人に与えるもの。理屈の界では四次元迄。人間は悲しい哉丈しか計る事も観る事も出来ない。丈を高めるのは只々絶ゆまぬ業行有るのみ。行ぜざる者に神は何も与えはしない。

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